04.特別講演


「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」
― 良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか ―

直木 葉造

プロフィール
1953年生。キリスト教家庭教育を受け、幼・小・中学の間は、プロテスタント教会の幼稚園、日曜学校の礼拝に出席し、聖書と信仰を学ぶ。その後、基督教独立学園に入学、在学中に生ける三位一体の真の神様と出会い、明確な信仰を与えられる。
独立学園卒業後10年間(国内3ヶ所の大学・大学院(農学部)において)生物化学(分子生物学)の学びと研究に従事。その間、東京で石原兵永先生の大久保聖書集会、盛岡で中田利男先生宅での家庭集会、仙台で山下栄三先生宅での家庭集会にて礼拝を守る。
在京中は登戸学寮(寮長前野正先生)でお世話になる。その後、盛岡向中野学園(現在の盛岡スコーレ高等学校)、学校法人盛岡キリスト教学園仙北町幼稚園、並びに、三重県の愛農学園農業高等学校に勤務し現在に至る。1993年から96年にかけ家族を伴い北欧ノルウェーに渡り、聖書に基づくキリスト教教育を続けている国民高等学校に滞在しつつ、主として、ノルウェー、デンマークのキリスト教主義私立諸学校(小・中学校、高校、国民高等学校、教員養成大学)、関係キリスト教諸団体事務所等を訪問し、キリスト教伝道と教育の研修と研究に従事、また、ノルウェー農民平信徒伝道者ハンス・ニールセン・ハウゲの生涯とその後の彼の信仰的働きが北欧社会へ及ぼした影響についての研究に従事。


序.
 今日は、北欧ノルウェーの地で神に召しだされた農民平信徒伝道者ハンス・ニールセン・ハウゲ(A.D.1771~1824)と彼の伝道の精神を継承してきたノルウェーのキリスト者の歩みについてお話します。先ほど開会の代表挨拶の中で坂内様が、この無教会全国集会を始めることになる経過についてお話になられましたが、その中で33年前の当時、無教会の独立伝道者石原兵永先生、政池仁先生らが召天されたことが大きなきっかけであったとのお話がありました。実は私は、学生時代石原兵永先生の大久保聖書集会に日曜日ごと4年間出席していた者です。それは高校時代基督教独立学園に在学中、朝の礼拝の時間に当時音楽の先生であった桝本華子先生から石原先生のお書きになった回心記についてお話を伺う機会がありました。私はその朝拝のお話に出てきた石原先生の回心記の内容に大変な感銘を受け、独立学園の図書室の書棚からその本を探し出し寮の部屋で夢中で読み、その後、石原先生に「是非1冊送って下さい」と直接お手紙を書き購入させて頂いたのでした。その際、先生は回心記の表紙の内側に「この書を読むものに主イエス・キリストの恵みゆたかならんことを 昭和46年2月 石原兵永」と記し、まだお会いしたこともなかった独立学園の一生徒の私にお送り下さったのでした。この石原先生の回心記は今でも大切にしておりまして、聖書を除いては私にとりまして最も大切な書物でございます。
今回、ご紹介するハウゲも石原先生と似た自己の内面の罪への苦悩と極めて明確な回心の時のあったキリスト者で、回心後農民平信徒伝道者として生きノルウェーの一粒の麦となった人なのです。私にとりましては高校生の時に基督教独立学園の鈴木弼美先生はじめ諸先生から、そして、東京での学生の時には石原兵永先生の下で福音を学んだ者として、この度機会を与えられハウゲのことを皆様にご紹介できる幸いを感じております。今日、皆様とハウゲについてとノルウェーの平信徒伝道の歴史を共有させて頂きますのは、19世紀以降の極東アジア日本における無教会主義平信徒伝道の歩みとも重なる点が多く、ノルウェーの事を知ることは私どもにとり主にある励ましとなると信じるからです。

デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの北欧諸国は、ヴァイキングの国と言われています。その中のノルウェーは、A.D.995年以降、国を上げてキリスト教国となったのです。当時はローマカトリック教会の下にあり、それ以前はゲルマン民族の神々を信仰していた多神教の国でした。この頃のことについては、今回は省略させて頂きます。

Ⅱ. ルターの宗教改革
 その後のドイツ・スイス・フランス・イギリス・オランダ等における宗教改革の影響、
 ドイツにおけるシュペーナーによる敬虔主義の登場
 敬虔主義のデンマーク・ノルウェーへの影響


 1000年以上におよんだローマカトリック教会の世で、西欧ドイツ南東部ヴィッテンベルグにおいてマルチン・ルター( A.D.1483~1546)に端を発する宗教改革が起こり、その影響はスイス・フランス・イギリス・オランダ等に拡がったことはよく知られています。当時宗教改革に関わった主な人物をほぼ年代順に上げますと、ドイツでフルリチ・ツウィングリ(A.D.1484~1531)、スイスでフィリップ・メランヒトン(A.D.1497~1560)、スイス(ジュネーブ)でジョン・カルバン(A.D.1509~1564、1541~ の動き)、スコットランドでジョン・ノックス(A.D.1513~1572)、イギリスでロバート・ブラウン(1550?~1633、1580~ 分離派の集会)、スイス兄弟団(急進派、スイス・オランダでの動き)、ツウィングリの影響の下にスイスでヤコブ・フッター(1533年頃、再洗礼派・信仰共同体を始める)、メノー・シモンズ(元カトリックの司祭、1536年~再洗礼派のリーダーに)、ヤコブ・アマン(1693年~メノナイトから分離・離脱)等がいます。そして、欧州における改革の経過の中で新大陸へ信教の自由を求めての移住も起こりました。宗教改革の影響は人の予想を超え西欧、北欧、そして、北米大陸へと広がり、その主義の違いから様々な派に分かれて行く歴史が続いてきました。人の歩みには分裂・分派が起こり、さらに信仰も形式化し命が失われることも起こりました。その様な状況の中からルター派正統主義のドイツにおいてシュペーナー (1635~1705年)による敬虔主義が登場してきたのです。シュペーナーは、個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質を見る信仰的立場に立ち、信者が定期的に信仰を深め合う目的で集会を開くことを提唱したのです。隣国デンマーク・ノルウェーは宗教改革後すぐに国としてルター派正統主義を受け入れましたが、その後の敬虔主義の動きも重要と判断し、やはり国を上げて受け入れたのです。そして、敬虔主義者のポントピダンを招き、彼に青少年の堅信礼教育で使用する教理問答書を執筆させ、国として一世紀以上に亘り使用してきました。この様な信仰的基盤の中に南東ノルウェーの地に小作農民の子としてハウゲは生まれます。

Ⅲ ハンス・ハウゲの育った家庭・幼少青年期
   人生の転機・霊的覚醒(回心)・神の召命と伝道活動


 ハンス・ニールセン・ハウゲは、父ニールス、母マリアの10人の子の中の5番目として、当時デンマークの一属州であったノルウェ-の東南部、現在の首都オスロの南約90km、グロンマ川の西岸に位置す東ハウゲ農場で、1771年4月3日に生まれました。誕生後その地域のトゥーネの教会で幼児洗礼を受け、ハンスと名付けられます。ハンスという名は、22歳の若さで天に召された信仰深かった叔父さんの名を貰ったものでした。ハウゲの両親は、謙遜で進取の気性に富んだ人たちで、敬虔で正統的ルーテル教会の信仰に堅く立つ家庭を営み、子どもたちは神の戒めを大切にするように育てられました。父ニールスはよく教育を受けていた人物で、子どもたちを厳しくしつけました。また、ニールスは信仰書の蔵書を多く持ち、その中にはルターやシュペーナーらの信仰書も多く含まれていたと言われています。彼は有能で同時に敬虔で、意志的で真面目、霊的な鋭い感性も備え、よく祈りよく働く人で、家庭内での礼拝も厳格に守る人であったことが知られています。母マリアも思慮深く、優しく愛情深い、神を畏れる賢い女性であったと言われています。
 ハンスは、学校が好きで勉学意欲はとても高かったと言われています。友達は彼の賢さには脱帽していたと言います。ハンスは、小さい時から神と自分自身の関係について考えることで、いつも頭がいっぱいだった子どもでした。それは、子どものころ三度死にかけたことがあったためと言われています。彼は父の農作業の手伝いの時に近くの川で溺れ二度死にかけたのです。その内の一度は13歳の時でした。彼はそのため年が若いのに関わらず、死と死後の裁きに対する恐れに襲われるようになっていたと言います。彼は心の平安を求めて家にあった父親の本や聖書をよく読み、しばしば一人祈っていたと言われています。彼は自分が死ねば罪のために神に受入れてもらえないと考え、学校でも自分の救いのことばかり考え物思いにふけることが多く、友達からはよく馬鹿にされていたと言います。ハンスは聖書に書かれていることをあまりによく知っていたので、牧師まで彼のことを小さい先生と呼んだと言います。1787年16歳になりハンスも他の少年たちと同じように堅信礼の時を迎えます。彼はその準備にも大変熱心で、その堅信礼の時にキリストの弟子になる決心をしたとも言われています。ハンスは表面的には忠実に教会生活を送るまじめな信仰深い少年として成長します。彼の生活は一般的には充分に満足できるものであったのです。しかし、彼は自らを真のクリスチャンとは思っていませんでした。神の御前に自分の魂の罪深さに気づいていました。ハンスの心の中には、敬虔に生きたいとの強い思いの反面、この世のものも得たいという欲も渦巻いていたのです。彼は教会生活を忠実に送っても、魂の平安は得られず助けになりませんでした。彼は22歳の時にさらに内面的転機が訪れます。それは、聖書を通してそれまで以上に神様について真剣に学ぶ決心をしたことです。そして、その後の彼はヘブライ人への手紙12章4節に記されているように、「罪と戦って血を流すまでの抵抗」をする時期をさらに過ごすことになりました。それでも彼の良心には平安は臨みませんでした。少しでも気を緩めると罪の中にある自らを見出していたのです。ハンスは、その後近くにある大きな町フレドリクスターの肉屋で1795年から働き始めます。親は彼の都会での生活を心配したと言います。都会には酒等、不信仰な行為に繋がりかねない誘惑があったからです。ハンスはそれまでと異なる都会での生活の中で、実は例外に漏れず酒を含めた様々な誘惑に負けてしまったと言われています。しかし、彼は半年足らずで実家の農場の手伝いのため肉屋を辞めています。このフレドリクスターで働いた期間は半年足らずと短かったのですが、後に世俗社会の中で福音伝道をすることになったハンスにとり人生の重要な経験の時となったとも言われています。ハウゲ(以後ハウゲと記す)は堅信礼の後、家で親の農場で手伝いをしている間も、一時フレドリクスターの町にいた時も、その後親の頼みで再び家に戻り農場の手伝いをしている時も、彼が25歳の春を迎えることになるまでの間、このような辛い目に見えない霊的な血みどろな戦いを経たのです。しかし、彼はそのような苦悩の中にあっても聖書の御言葉に励まされつつ、諦めることなく救いを求め続けました。以上、述べてきたこれら全ての経過が、彼の人生における後の決定的な回心(霊的覚醒)に繋がる重要な準備となったのです。
 主なる神はそのようなハウゲの人生で最も重要な時をついに備えられました。それが1796年4月5日で、フレドリクスターから親もとに戻り年を越し、イースター(復活祭)を迎え、その次の日曜に家族と25歳の誕生日を祝った直後の出来事です。その日はハウゲにとってはもちろんのこと、ハウゲの母国ノルウェーの人々にとっても記念すべき歴史に記憶される神の日となったのです。ハウゲの回心に至る最後の時期の1795年半ば頃からの約半年、彼は自らの魂の抱え続けてきた問題の真の解決を求め、日々の生活のあらゆる時、いたる所で、神に切に祈り、本当の救いを求めたのです。特に回心直前の頃のハウゲは、自身への誘惑や自らの弱さに立ち向かい罪を犯さずに済むように、助けになる讃美歌をよく歌っていたと言われています。そして、1796年4月5日ハウゲが回心を経験したまさにその時も、ある讃美歌を口ずさんでいました。1796年4月5日のハウゲの経験については、ハウゲの全集の編纂者で全集第1巻の冒頭にあるハウゲ小伝の著者ハンス・オールデインが述べているので、以下に紹介します。「・・・その体験についてはハウゲ自身が語っているけれども、私たちは彼の説明からその出来事が、極めてはっきりした強烈な体験であった印象を受ける。その出来事は晴れた日の真昼、彼の仕事の最中に起こった。ある空の晴れ渡った日、屋外で働いていた時、讃美歌 Jesus, I long for Thy blessed communion!を口ずさんでいた。・・・」ハウゲの回心は、使徒言行録にあるパウロの体験のように、真昼、屋外で起こったのです。ハウゲはこの時家の近くの畑で、春の作付けの準備のために馬耕をしていました。彼が、讃美歌Jesus, I long for Thy blessed communion ! の2番を歌い終わった時、突然その回心の時が、ハウゲに臨んだのです。
2番の歌詞は、聖霊の力と導きを祈り求める内容でした。以下にハウゲ自身の記述を引用します。「わたしの魂は、突然神のみもとへ高く引き揚げられました。その時、自分が霊的にどのようになったのか、自分でもよく分からない、うまく説明できないような状況にありました。その後私は我に返ってすぐ私の心の内で、愛であり全てにおいて恵みに富みたもう主なる神に対し、それまでの人生で真に敬い仕えて来なかった自分について悔いました。その時私の魂は、もはや世には愛すべき何ものもないと感じました。私の魂はその時、何か超自然的なもの、神聖なもの、祝福に満ちたものを感じていました。それはいかなる舌も説明の出来ないほどの栄光と侵しがたい権威に満ちたものでした。その時私は心の持ちようが完全に新しくされ、あらゆる罪に対する悲しみの心と、隣人にも同じ恵みに与ってほしいとの燃えるような願いと、聖書、とりわけイエスの教えを深く読みたいとの抑えがたい願いに満たされました。また、同時に私はイエスの教えと神の遣わされた人たちの教えを、深く受け止める啓示の光をも与えられました。その啓示は、キリストは私たちの救い主として来られたこと、私たちは彼の霊によって再び新しく生まれ回心すべきことを悟らせ、また、敬虔の中に三位一体の神のみに仕えるために、私たちの魂を永遠の祝福に対して相応しくなるよう改め備えさせ、ますます神のご性質と同じように聖くされるよう導くためのものでした。」オールデインはさらにこのハウゲの体験について、この体験は常識を超えた特殊なものであったが神の御言葉に根拠を持っていたこと、また、この時幾つもの聖句がハウゲに明確で間違いのない神の召命を与えるためにどっと押し寄せたことを、ハウゲ自身の記述に基づき語っています。この体験の結果、ハウゲが子どものころから抱いてきた死と裁きに対する恐怖も、自らの罪からの救いについても、真のクリスチャンになりたいと願った思いも、それら本質的な悩みから彼は一挙に解放されたのです。彼は圧倒的な神の愛と赦しの臨在により、具体的な全ての不安や恐れが吹き払われ澄み渡った霊的青空の下に神の恵みの中に置かれ生かされている自己を見出したのです。誠にハウゲにとっては、20年近くの長きにおよんだ霊的苦悩の厚い曇り空が晴れ渡った瞬間だったのです。ハウゲがこの経験について初めて書き記したのは、そのことが起こってから21年後の1817年でした。彼がなぜもっと早くこの経験を語らなかったのかは、彼にとりこの経験はあまりにも神聖な経験であったためだと言われています。彼は極めて現実的な感覚の持ち主で、信仰上の霊的体験についても神の言葉に照らし吟味する必要のあること、実により見極めるべきことを重視していたと言われています。彼は、一時的な霊的体験よりも御霊の実としての清い生活を重視していたと言われています。
 ハウゲ自身は回心とほぼ同時に、ノルウェーの愛する同胞が一人でも多く霊的に目覚め、悔い改めて回心し、真の救いと神の平安に入るための証し人としての神からの召命を受けたのです。ハウゲの回心した1796年4月5日は、真にノルウェーの人々にとって記念すべき日となったのです。実は私たち家族がノルウェ-での滞在を終え日本に帰国した2ヶ月後の1996年4月5日は、ハウゲの回心と伝道開始200年の記念の日でした。彼は初等教育を受けただけの、まだ25歳の小作農の若者にすぎなかったのですが、歴史を支配していたもう主なる神は、かつて預言者エレミヤを召しだされた時のように、ハウゲに「わたしは無学な若者にすぎません」と言うことをお許しにならなかったのです。神はハウゲを、主の僕として決定的に捉えたまいました。ハウゲは神の召しに従い、その回心の起こったその日から証を始めています。先ず最も身近な兄弟姉妹に証し、その日の内に二人の姉妹が回心へと導かれます。その一人アンネはその後早く天に召されますが、生前ハウゲを深く理解し励ましてくれた一人でした。回心後ハウゲは、しばらくの間特別な喜びと平安の中にいたようで、睡眠時間も減り、祈りや読書、本の執筆に夢中になっていたと言います。ハウゲの身に何か重大な変化が起こったことは、彼のことを最も身近で常に気にかけていた両親や兄弟姉妹には、はっきり感じられたようです。そんな彼を観ていた母親は、特に心配したようです。彼の働きかけでその後、他の兄弟姉妹5人、そして、母も信仰的に大きな変化へと導かれることとなりました。生ける神の霊の働きが、その時期この家族に特別に強く臨んだのです。ヨハネによる福音書3章23~24節には、以下の御言葉があります。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。 」神は、18世紀も終わりに近いこの時に、北欧ノルウェ-の地でまことの礼拝をする者たち、霊と真理をもって父を礼拝する者を求めておられたのです。神は霊であり、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならないのです。その時がハウゲの回心を経てこの地に臨みつつありました。身近な人々から始まり、ハウゲの証は徐々に親戚の人々、町の人々へと、あらゆる機会を用いてなされて行きました。彼は当初会う一人ひとりに、個人の回心と聖化について語っていたと言われています。しかし、その年の夏頃から人の多く集まる場でも語るようになります。ルター派の国教会のこの国で、既に敬虔主義の影響はあったとはいえ、ハウゲ以降から実に個人の家での礼拝・集会、農家の納屋など、いろいろな場での礼拝が頻繁に開かれるようになり、信仰復興(リバイバル)がいたる所で起こったのです。ハウゲの伝道活動では、最初の頃は近隣1ヶ所のみで集会が持たれていましたが、それ以降徐々に集会の開かれる地域が拡がり、オスロフィヨルド東部と西部の村々、オスロの北、現在のハーマルやリレハンメル等の町のあるミェーサ湖周辺、オスロ北西のドランメン、そして西海岸の町ベルゲンでも開かれ、そして、海岸沿いに南下したスタバンゲルやクリスチャンサン等のノルウェ―の南部の地方でも、さらにそこから北上した当時ノルウェーの最北に相当した町トロムソでも集会は開かれたようです。彼は徒歩でノルウェーの山々、谷を渡り歩き、途中の村々・町々で集会を開きました。ハウゲの巡回伝道の活動は、先にも述べたようにわずか8年間の中で行われたのです。神の計画は短期間の内に起こることがよくあるのです。イエス様の宣教は、わずか3年でした。ノルウェーはフィヨルドで地形的にも険しく交通の便が大変悪く冬季の気候条件も厳しい地域で、これほどの旅を短期間にした人は当時としてはいなかったと言われています。その頃の交通手段を考えると驚異的な事でした。彼は多くは徒歩で、時には走り、その他馬車、船、さらに冬にはスキーや橇で、実質上は15,000km以上も旅したと言われています。彼は、しばしば人里離れた道もない所を歩き、春から秋には雨や時には嵐、冬は雪と厳しい寒さにあいつつ、粗末でわずかな食べ物(ノルウェ-は当時飢餓の珍しくない国であった)、粗末な服装にリュックサックを背負い、手に杖を持ち、さらに、食費等を少しでも自分で稼ぐため、歩いたり走ったりする旅の時間を上手く生かし、編み針を携帯して靴下や手袋を編んだと言います。彼の編んだ手袋の写真が今も残っています。彼の訪れた先々でリバイバルは起こりました。ハウゲは温厚で優しく、出会ういろいろな人と自然に接蝕できました。その様子の窺える多くの逸話が語り伝えられています。また、ハウゲは実際生活のことに関しても多くの分野に見識を持ち、出会った人々と世俗的なことを話し出すこともよくあったと言われています。相手の信頼を得てから霊的なことを話し、出会う人それぞれにふさわしい話し方、内容で語ったと言います。また、福音書のイエスのように、敵対者に答えるにも独自のやり方があったとも言われています。また、リバイバルでは聖霊の働きにより、ハウゲに続く賜物を与えられた伝道者が生み出されて行きました。彼の弟ミッケルもその一人であったと言われています。さらに婦人たちもリバイバルで重要な役を果たすこととなります。彼のリバイバルは、国全体に広がって行きました。ハウゲが訪れるより先に時としてハウゲグループができていることもあったと言います。ハウゲのリバイバルは信徒の説教に門戸を開くこととなります。敬虔主義運動と言えども当時は牧師が中心で進められていましたが、ハウゲらのリバイバルは信徒の説教と指導で生まれ、続けられた運動となったのです。ルターの万人祭司制が真に実行されたのです。このノルウェーの平信徒運動は今日まで続けられています。リバイバルでは聖徒の交わりが大切にされました。初代キリスト教会と同じように、霊的にも物質的にも皆で支え合い、グループ内で信仰を育て時に必要な訓練もして行きました。ハウゲと支持者らは組織を作らず、恵みの賜物を備えた人が自然にグループのリーダーになり、全てが神の国に対する自発的奉仕として行われました。ハウゲらは国教会に対し分派を作ったり逸脱することはありませんでした。

Ⅳ. 受難 10回におよぶ逮捕・監禁・投獄 、 晩年

 ハウゲは、故郷ノルウェーの南東部からはじめ、北ノルウェ-の町や村まで、巡回伝道者として神の霊の導きにより、伝道活動を続けました。その結果、新たな信仰の炎が多くの同胞の内に灯されていったのです。逮捕・監禁・投獄によりわずか8年間でその活動は中止せざる終えなくなりました。神の真理が語られリバイバルが起こるところでは、悪の勢力の妨害も必ず起こるのです。ハウゲに対しもそのようになって行ったのです。いろいろな形での敵対、嘲り、そして、ついには使徒言行録で語られているような主の弟子たちも受けたように逮捕、監禁、投獄されることになりました。彼は最終的に10回におよぶ逮捕、監禁、投獄を経験しました。ハウゲの受けた苦難は、1796年4月5日のハウゲの回心後伝道を始めてから9回目までの逮捕、監禁と、1814年の10回目約10年におよんだ最後の逮捕、監禁、投獄、そして、最高裁判所の最終判決により釈放されるまでの経過とに大きく分けられます。ハウゲの逮捕、監禁、投獄の法律上の理由、当時の状況、最高裁判決、等々の詳細についてはここでは省略します。彼は長期にわたった監禁、投獄のせいで、肉体のみならず信仰的にも極めて不健康な状態に陥ったとも言われています。けれども彼が牢から出され自由の身となった以降、病気の療養をしつつ召されるまで最晩年を過ごした二箇所の農場での生活は、ハウゲと家族にとっても、また、信仰を共にし彼を訪ねてきた友人たちにとっても、神の守りと祝福の中にあったことが知られています。1805年7月5日以降内閣命令で没収されていたハウゲの著書は、1814年12月のハウゲの釈放後、1815年6月14日に新しい独立ノルウェー政府の決定で解禁となりました。また、新政府は彼に対し、旧政府の没収した彼の著書を、彼に戻したのです。

Ⅴ. ハウゲの伝道と著作活動(信仰書と書簡)
     ハウゲ同胞への愛から事業の賜物を生かす


 ハウゲは回心後しばらく、睡眠時間も減り、祈りと読書、本の執筆に夢中の生活を送ったと言われています。そして、夏までの数ヶ月間に2冊の信仰書を執筆し、首都オスロまで出かけ出版しています。その後ハウゲは、神の召しに従いノルウェー中を巡回伝道し、イエス・キリストの救いの真理を証したのですが、生涯にわたり信仰書の執筆を続けたのでした。ハウゲの伝道により起こったリバイバルにおいて、彼の書いた信仰書の果した役割はとても大きかったと言われています。ハウゲは伝道開始から数年の内に全国的に知られる伝道者となりました。彼がいろいろな地域を巡回した際それまで訪ねたことのない地域で、しばしば彼より先に彼の信仰書が届いており、多くの人々に読まれ信仰復興の手助けとなっていたのです。小作農の息子で当時の初等教育しか受けていなかったハウゲが、何故回心と同時に信仰書の執筆出版を次々と成しえたのか、ということは大変興味深いことです。神は人間の思いを超えてご計画の実現のための準備を、彼の家族とハウゲ自身の内に見事にされていたのです。それは、ハウゲの幼少青年期のところでも既に述べましたが、ハウゲの父親ニールスは、教育を受けた信心深い人で、ルターの書いた信仰書やシュペーナーらの敬虔主義の信仰書等々、家に多くの蔵書を持っていたこと、また、息子のハウゲは幼い頃に死にかけたことから、幼くして死と死後の世界における神の裁きへの恐れを持ち、その心配から救われるために必死で父親のそれらの蔵書や聖書を読んでいたこと、彼の受けた教育は初等教育だけでしたが、そのため勉学への意欲は並外れて強く、堅信礼を受ける頃までには既に牧師も舌を巻くほど聖書そのものも深く読み込み精通していたと言われているのです。このようにハウゲは若くして既に書物の価値と重要性へ深い認識を持つようにされていたのであり、これらの経過がまさに彼の回心後直ちに信仰書の執筆と出版を次々と成し遂げさせることになったのです。ハウゲは自分のそれまでの経験から、信仰の真髄と具体的な信仰生活について分かりやすく書かれた本を出版することが、自らの伝道の働きの中でも重要と考えていました。一般の人々の理解しやすい信仰書は当時まだあまりなかったのです。また、ハウゲは彼の本を販売することに関心のある人々ともいろいろな地でめぐり合い、彼らに本の販売を委託しています。そのような結果、彼の本は当時としては珍しく驚くほど売れたのです。神の不思議なお取り計らいで、当時18世紀末から19世紀初頭の北欧ノルウェーの地において、ハウゲの本が最も読まれたということです。
 ハウゲは1814年暮れに最高裁判決により正式に釈放されます。その後の病気療養しつつの晩年の生活の中でさらに出版した書籍は15冊もあるのです。これらはバッケハウゲンとブレドゥエットの静かな農場での思索の産物で、文体的にも優れた物と言われています。1953年にはハウゲの全集が出版されています。ハウゲらのリバイバルを健全に維持する役目を担うこととなったものに、もう一つ彼の手紙があります。ハウゲは信仰の友人を始め多くの人へ手紙を書いています。個人的なもの、リバイバルのグループへの諭しと励ましの回覧書簡とか、実によく手紙を書きました。それらは彼の本以上の大きな働きをしたとも言われています。1971年にはIngolf Kvamenによりその貴重な書簡が集められ、全4巻の書簡集として編纂され出版されることとなったのです。書簡集にハウゲの手紙は約500通収められています。新約聖書中のパウロらの書簡を思い起こさせる事柄です。
 ハウゲは、1796年4月の回心後から1804年秋にオスロ近郊で逮捕され長期の監禁・投獄されるまでの8年間、巡回伝道者としてノルウェーの南西・南東部から北ノルウェ-の港町トロムソまで、至る所の町や村を自らの足で歩き訪ねました。その中で、思いがけずノルウェ-各地の人々の暮らしぶりをつぶさにみることとなりました。ハウゲ自身も貧しい小作農の子でありましたが、北ノルウェ-の気候的にも厳しい地域で生活している多くの人々が、さらに大変な貧困の中に置かれていることを、その旅で直接目にし肌で感じさせられることになったのです。その結果ハウゲは、人々の生活がどうしたら少しでも良くなるかを考え、人々のために新しい産業を起こしたりもすることとなります。彼は召される日までいろいろな事に具体的に取り組み続けたのでした。彼は若い頃からよく本を読み勉学意欲も旺盛であったのと、親の農作業や大工仕事の手伝いなど様々な働きをしてきていましたので、他の人の気が付かないうちに彼の内には農業や商業についても、さらには他に新しい産業を起こすのに必要な知識も持つようになり、鋭い勘も養われていたと言われています。彼は手先が器用で家具作りも上手だったのです。彼は大家族の中で育ち、身にしみて貧困の辛さも分かっており、できれば貧困からは解放されたいと強く思っていた人物なので、神はハウゲの中に隣人の魂の救いの手助けの使命と共に、同胞の生活を助けるために新しい事業の創業の賜物をも与えておられたのでした。ハウゲは、その点においてもノルウェーの近代の歴史において実質的に大きな貢献をした人物なのです。信仰復興により国民精神に内面的に多大な影響を与え、さらに社会・経済的に国民の生活の水準を上げることに導く土台を据えてくれたのです。それ故、彼は今日でも国の恩人と考えられているのです。トゥーネの出の小作農民の子が「ノルウェー全体を整えた」と、また、本の出版においても「18世紀の終わり頃のノルウェーで、最も生産的な著者であった」との賞賛を受けているのです。彼の関わった新事業として製紙工場、製粉工場、鉱業、印刷会社等があります。そして、農業や帆船をも所有しての南ノルウェーから北ノルウェー間でのいろいろな商いも始めたのです。ハウゲから個人的に事業を始めるように勧められた人の中には、その後その地方の産業面だけでなく霊的指導者となった者が多かったと言われています。ハウゲアーナと呼ばれたリバイバルグループの人々は、ハウゲの影響もあり勤勉で創意工夫に富んでいたので、霊的にも物質的にもノルウェー社会の中で影響力を増して行きました。1800年夏にハウゲはコペンハーゲンで本の出版のために半年ほど滞在していましたが、彼はその時に信仰の同志たちが困窮から救われるために経済的共同の考えを持つようになったとも言われています。彼がその夏コペンハーゲンから出した回覧書簡の中には協同事業、協同組合の構想が述べられていると言います。しかし、あまりに時代の先を行きすぎていた内容であったため、残念ながらその考えは実際には実行に移されなかったのです。

Ⅵ. アメリカ アマスト大学総長 シーリー先生( ドイツ ハレ大学留学 )と
                          内村鑑三・無教会主義


 アメリカのアマスト大学総長であったシーリーは、1845年アマスト大学に入学、49年卒業、49~52年オーバン神学校で学び、52~53年にドイツハレ大学に留学している。ハレ大学は東南ドイツのハレの町に1694年に設立され、後にドイツ敬虔主義の一大拠点となった大学であり、その大学にアメリカからシーリーが留学したのです。シーリーが敬虔主義の影響をどの程度受けたかについては、今の私には定かではありません。しかし、アメリカでアマスト大学の学生となった内村鑑三をイエス・キリストの十字架の贖罪信仰へと導いた恩師の経歴としては大変興味深い事実で、ルター以降の宗教改革の流れにおける敬虔主義の内村への影響、無教会主義に至る歴史の流れの中においても無視できないものを感じます。

Ⅶ. ハウゲ 以後19~20世紀のノルウェーのキリスト者の歩みから学ぶ
                       無教会主義精神の世界史的意義


 ノルウェー社会においてハウゲ以後から現在まで、人々が信仰的に深められる大きな変化が起こったことと共に、社会制度・産業分野、教育分野、そして、福祉分野においても変化が続きました。1814年以降、実質的に独立国として着実に歩み始め、聖書の教えに基づく憲法の下、社会作りが続けられてきたのです。現在ノルウェーはヨーロッパの北に位置する小国でありながら毎年ノーベル平和賞を世界に対して出す責任を負う国として大事な役割を果たしています。このことも信仰的に見ますと神様のからくり、ハクゲ以後のノルウェーにおいて、後に世界のためにノーベル平和賞を出す役を担うための国民的な信仰的準備がなされていたということだと私は考えます。そのようにノルウェー社会が良き方向へ発展することになる基本的で最も大切な社会の取り組みが、聖書に基づく人間教育でした。ノルウェー各地に生きた信仰に立つ教育を実践する学校が次々と創設されて行き、今日までもその流れが続いているのです。ハウゲの働き以降、国内に幾つもの国内外への伝道団も興され、伝道団が個別に、又は、チームでそれらの私立のキリスト教主義で寮を持つ学校を運営してきたのです。近年、新たにハンス・ニールセン・ハウゲ高等学校が、ハウゲと縁のあるノルウェー南東部の町フレドリクスターに創立されています。伝道団の一つ、ノルウェールーテル伝道団だけでも、15~18歳までの生徒を教育する全寮制的な高等学校をノルウェー各地に10校以上運営しているのです。福音宣教の基本には教育が大切なことをノルウェーのキリスト者はよく理解しています。この点は、内村鑑三を通して信仰の真理に目覚め真理としてのキリスト教信仰の伝道のために基督教独立学校・基督教独立学園高等学校を創設した鈴木弼美の考えと共通するものがあります。鈴木弼美が伝道の拠点としたのと同様に、ノルウェーのキリスト者も平信徒伝道の拠点として信仰に基づく学校を創設したのです。日本における明治以降のミッションスクールは、外国からの宣教師の所属する教派に左右されてきましたが、ノルウェーの場合には元々ルター派の国教会がベースで、その中において福音宣教の方法として平信徒伝道の場として教育の場が増えて行ったのです。この様な教育の動きとは別に、もう一つノルウェーにおける平信徒伝道の歩みの歴史の中で、日本人の知らない特筆されるべきことがあります。それはノルウェー各地における「祈りの家」建設を伴った伝道の歩みです。全国に数千箇所もの祈りの家が現在もあるようで、国教会とは別に地域の平信徒の集会所として様々な信仰に基づく活動の場となっています。幼い子どもたちからお年寄りまで、信仰を中心に共に集い様々な活動を続けています。基本は愛の交わりによる平信徒の伝道を含んだ活動の場です。この祈りの家での集会で、礼拝の後に献金の時があります。ノルウェーのキリスト者の多くはその様な時に喜んで主のためにささげます。それらの多くの献金が用いられ国内・外伝道が推し進められて来ました。21世紀に入った今日でも人口の少ない小国のノルウェーですが、世界の国々の中で一番宣教師を海外に派遣していたと言われた時期のあったのはこの様な経過からなのです。ハウゲやノルウェーの人々の主にある働きが今後の日本福音宣教のために少しでも参考になればと願います。
 無教会主義精神とは、目に見える教会や組織・制度に依存するのではなく、三位一体の神にのみ依り頼み、イエス・キリストを信じる真の信仰に立つ精神です。神の真理に立つ無教会主義は信仰の原点であり、ときの流れや人の変化に左右されることなく存続するものです。ハウゲやノルウェーの平信徒のキリスト者の歩みと通じるところがあり、空間と時を越えて前へ進んで行くのです。無教会主義は最も純粋な信仰の姿です。

終りに 21世紀 ノルウェーの課題・日本の課題 平信徒伝道

 今日、日本のキリスト者は、人口の1%に満たないと言われています。マルコによる福音書16章14~18節には、イエスの十字架の死と復活後、昇天の直前に弟子たちに話された次の言葉が記されています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」私は平信徒一人ひとりが主なる神に仕え、伝道していくことの大切さを改めて思います。讃美歌234番の1・2番の歌詞「 昔主イエスの播きたまいし、いとも小さき生命のたね、芽生え育ちて地のはてまで、その枝を張る樹とはなりぬ。歴史のながれ旧きものを、返らぬ過去へ押しやる間に、主イエスの建てし愛の国は民より民へ広がりゆく・・・」にあるように、信仰を与えられた私たちが神様の御用に参加させていただけることの幸いをも思います。神様とイエス様と聖霊なる方の助けにより、私たちがその役目を遂行できるように心から願います。さらに日本に神の祝福が豊かに臨むように、私たち平信徒一人ひとりを清め用いて下さるように祈ります。 (講演で説明不足の内容を補足しました。)